2017年11月12日日曜日

第2回ボヘミアフォーラム「チェコスロヴァキア軍団と日本」開催のお知らせ(実践女子大学渋谷キャンパス)

12月16日(土)に実践女子大学渋谷キャンパスで第2回ボヘミアフォーラムが開催されることになりました。ボヘミアフォーラムというのは、年に一度行われる、チェコの歴史、文化や社会を研究している人たちの集まりです。今年のテーマは「チェコスロヴァキア軍団と日本」です。
チェコスロヴァキア軍団というのは、第一次世界大戦中にロシアで主にチェコ人とスロヴァキア人によって結成された部隊のことです。このチェコスロヴァキア軍団は、はじめ東部戦線でドイツと戦い、ロシア革命後にロシアのボルシェヴィキ政権とも戦いました。1918年8月に日本のシベリア出兵が始まりましたが、この際に日本の政府が大義名分として掲げたのは、シベリアに駐屯していたチェコスロヴァキア軍団の救援でした。結局、チェコスロヴァキア軍団の兵士たちは1920年にチェコスロヴァキアに帰国することになりましたが、帰国の際に彼らの多くは日本を訪れています。今回のボヘミアフォーラムは、「チェコスロヴァキア軍団と日本」を共通のテーマとして、さまざまな観点からこの問題について考えていきます。
中央ヨーロッパ、東ヨーロッパの歴史(第一次世界大戦)や日本の歴史(シベリア出兵)、またチェコ・日本の交流史に関心のある方はぜひご参加ください。なお、プログラムおよび企画趣旨、発表要旨については以下の資料をクリックしてご確認ください。

2017年6月11日日曜日

ムハ、オムラジナ、そして、明治の日本 aneb Alfons Mucha a Omladina v Japonsku

国立新美術館の〈ミュシャ展〉は大盛況のうちに幕を閉じた。日本では、パリ時代のポスターをはじめムハ(チェコ語の表記)の作品は以前から数多くのファンによって親しまれているが、スラヴ民族の神話やムハの母国チェコ(ボヘミア)の近代史から画材を採った「スラヴ叙事詩」に初めて向き合った観客のなかで戸惑う方も少なくなかっただろう。巨大なカンバスに描き出される人物や出来事の歴史的な背景を知らない日本人にとって、ムハの作品の意味を読み解くことが決して容易ではない。

「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」と名付けられた作品は「スラヴ叙事詩」のなかで特別な地位を占めている。スラヴ民族の守護神スラヴィアを中心に輪をつくり、手を挙げて忠誠を誓うスラヴ人の姿を描いたこの大作は、複数の人物の顔が輪郭しか描かれていないところからもわかるように、ムハが制作の途中で筆を投げ出した未完成の作品である。手を挙げて誓う人物の姿勢や前面の石塀に描かれた鉤十字は、ヒトラーが率いるナチ党が急速に勢力を伸ばしつつあった1920年代に、作者の本来の意図に反して、ナチズムのシンボルとして捉えられかねないことをムハ自身が制作中に意識したからであろう。

ところで、〈オムラジナ会の誓い〉ムハが何を描こうとしたのか。〈ミュシャ展〉のカタログをみると、この作品の歴史的背景については「1894年、愛国心に燃える若者たちの団体オムラジナが、チェコの政治状況の中で勢力を伸ばした。彼らの要求は普通選挙からスラヴ文化の再生に至るまで広範に及んだ。そのため、オムラジナは20世紀初頭に弾圧されたが、ムハ(ミュシャ)は、スラヴ諸国が外国支配からの解放を目指して奮闘し、国家復興運動が頂点に達した時代にオムラジナが重要な役割を果たしたことに注目した。」と説明されているが、この解説の内容は歴史的事実から遠く離れているとしか言いようがない。(第一、オムラジナとは運動のことであり、一つの組織のことではない。第二、オムラジナが弾圧されたのは20世紀初頭ではなく、1893年のことである。)

周知の通り、1890年代のチェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれていたが、チェコ国内に居住するチェコ人とドイツ人は平等に扱われることなく、チェコ人の市民権が厳しく制限されていた。こうした不平等な扱いを帝国議会では政党〈若いチェコ人〉(Young Czechs)の代議員が強く批判し、一方、プラハの路上では「若いチェコ人」に同調した青年らによって抗議デモが頻繁に行われた。これらの青年たちは自分のことをしばしば〈オムラジナ〉(チェコ語では「若者」の意)と呼んでいた。(〈オムラジナ〉という言葉を冠した団体はこの時期に複数存在し、「オムラジナ」という同人誌もこの時期に刊行されていたが、〈オムラジナの会〉という一つの統一的な組織が存在していなかった。)

1893年、オーストリア政府を批判した大規模なデモが相次いで勃発したため912日に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がプラハおよびその周辺で戒厳令を布告し、デモに参加した若者らが一斉に検挙された。検察は、これらのプラハのデモは自発的なものではなく、〈オムラジナ〉という秘密結社によって起こされたことを主張し、疑わしい証言のほかに証拠らしい証拠を何も手にしていなかったにもかかわらず、検挙された青年らをこの秘密結社の活動に関与したとして起訴した。不満の声をあげる若者らを沈黙させるための不当な裁判であったわけである。のちに詩人として知られるSK・ノイマン(Stanislav Kostka Neumann1875~1947)やチェコスロバキアの初代財務大臣をつとめたA・ラシーン(Alois Rašín1867~1923)をはじめ、起訴された76名のうち68名に対しては実刑の判決が言い渡された。

今、この〈オムラジナ事件〉は日本では全く知られていないが、興味深いことに、発生当時この事件はほとんどリアルタイムで日本で報道されている。1893920日発行の『朝日新聞』に掲載された記事「ボヘミア封鎖を布告す」では、プラハで戒厳令が発布されたことが簡単に報告されているにすぎないが、同年1027日発行の「墺国皇帝詔勅に関する騒擾」では、オーストリアの皇帝が「出版の自由、公会権」を含めて市民権に関する憲法条款の権力を停止した」こと、またそれに対して「ヤング・クゼヒス(=政党〈Young Czechs〉のこと)の領袖等は大に皇帝の圧政を憤り各所に示威的演説を催して頻に人民を煽動し今にも反旗を翻へして維也納に迫らんず有様なるにぞ」と、チェコ国内の緊迫した政治的状況が詳しく解説されている。市民権停止の理由については、「ヤング・クゼヒスの会員」は「全く朝廷に反対することとなり」、「郵便函を破壊し」たり、「皇帝の軍服及び国旗を汚」したりするなど、「乱暴狼藉」を行うため、「墺帝の圧制的詔勅は其実已を得ざるに出たるものなり」と説明されている。皇帝による市民権停止は、「若いチェコ人」が煽動した国民の破壊的行為に対しての正当な対応であったという見方がここで示されているわけである。更に、同年117日に『朝日新聞』に掲載された「過激党三百余人の捕縛」という短い記事では、「「ヲンラヂナ」と称する秘密党」が「墺国ボヘミヤ政府の高等官を暗殺せんと」したため、「党員三百余名」が逮捕されたことが報道されている。記すまでもないが、「ヲンラヂナ」とは「オムラジナ」のことである。

ムハの〈オムラジナ会の誓い〉の題材となった「ヲンラヂナ」(=〈オムラジナ〉)の事件が同時代に日本でも報道されていた。皇帝を批判した〈若いチェコ人〉や〈オムラジナ〉は、まるで帝国解体を目的としたテロ組織のように見做されていたことも明らかだが、不敬罪でさえも厳しく咎められるこの頃の日本帝国(内村鑑三が天皇の御名に対して最敬礼を行わなかったため教職を追われたのは1891年のことである)では、皇帝に対する批判が容認されるはずがなかった。
ムハは〈オムラジナ事件〉の歴史的背景をどこまで知っていたかは定かではないが、彼の〈オムラジナ会の誓い〉は、帝国を相手に怯むことなくて、支配下に置かれる母国の文化の存在権やチェコ人の市民権を主張した若者の愛国心と反骨精神を謳ったものである。

「オムラジナ」(1902)
「オムラジナ事件」(1894)
    

2017年6月10日土曜日

日本におけるカレル・チャペックの受容 aneb Jak to bylo s Kájou Čapkem v Žaponsku

日本で初めてカレル・チャペックを紹介したのは、のちに英文学者として知られる長沼重隆がニューヨークから寄稿した「“R.U.R” 人類滅亡から新しき誕生へ ボヘミア作家の傑作劇」(『週刊朝日』1923121)という記事である、とこれまで言われてきた。当時ニューヨークのGarrick Theatreで上演されていたチャペックの初期代表作「ロボット」を「人間が人間の創造した機械的物質文明のために自縄自縛にはまり込み、遂に之がために征服され、滅亡するの日を描き出した深刻な諷刺劇」として位置づけ、戯曲の物語内容を細かく解説したこの評論は日本で最も早くチャペックの作品を紹介したものである、という指摘は籾山昌夫氏や藤元直樹氏の論文にみられ、わたくしも、先日刊行された『チャペック兄弟とその時代』に収録された拙稿においてこの指摘を踏襲している。
しかし、この文章は日本で初めてチャペックの作品を紹介したものではない。
長沼重隆より一ヶ月早く、192212月に『文明協会講演集』に「米国劇団に表れたボヘミヤ劇の影響」(作者未詳)という評論が掲載され、その中にも、「哲学者であるのみならず、文学批評の書物の著者」でもあり、「戯曲家でもありプラーグのヴインフラデイ劇場への劇の提出者」でもあるカレル・チャペックと、「一スラブ人がスラブ民族の為に書いた」という戯曲「ロボット」が簡単に紹介されている。誤字が目立つ文章であり、内容からいっても、長沼重隆の評論のほうがより詳しくチャペックの作品を解説しているが、(一ヶ月とはいえ)長沼重隆より先にチャペックを日本で紹介しているものとしては注目に値する。(「ロボット」ばかりではなく、チェコスロバキアの文化や言葉、ポルカというダンスの由来などについて説明されているのも興味深い。)

2017年5月5日金曜日

明治末期の日本とチェコ文学 aneb Gustav Meyrink v Japonsku

日本で最初に翻訳されたチェコ文学の作家は誰だろう。カレル・チャペックと考える人が少なくないだろうが、じつはチャペックよりおよそ10 年も早くグスタフ・マイリンク(Gustav Meyrink, 1868-1932)の作品が日本語に訳されている。勿論、国籍や使用言語から言えば、チェコ人ではないが、20 年間程プラハに滞在し、作品中プラハが頻繁に舞台とされることから、フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)やフランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel, 1890-1945)とともにドイツ語で書くチェコ文学作家として捉えることも可能である。
ところで、マイリンクの作品は早くも明治末期に日本語に訳されている。明治451912)年に『帝国文学』に発表された小池秋草訳「城外の古缸」(『帝国文学』19125)と「見世物小屋」(『帝国文学』19128)はいずれも作品集『蠟人形の陳列室』Wachsfigurenkabinett1908)に収録されたマイリンクの最初期の作品である。マイリンクは『ゴーレム』Der Golem1915)や『緑の顔』Das grüne Gesicht1917)によって各国で名声を博したが、これらの名作を執筆する前からその作品が日本で翻訳されていたことは注目に値するところである。
また、マイリンク自身は日本をはじめ東洋文化に深い関心をもち、後年にラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 1850-1904)の『霊の日本』In Ghostly Japan1899)と『骨董』Kotto1902)の中から16 篇の怪談を訳出し、『日本妖怪史』Japanische Geistergeschichten1925)として刊行した。因みに、『蠟人形の陳列室』の中には新渡戸稲造の著書『武士道』Bushido: the Soul of Japan1900)に触発されたと思われる、武士道を揶揄した短篇「チトラカルナ」Tschitrakarna, das vornehme Kamel が収録されている。『蠟人形の陳列室』が日本の訳者小池秋草の関心を引いたのはそのためでもあろう。



2017年4月6日木曜日

ムハについて一言 Par slov o Muchovi v Japonsku

1919(大正8)年、大佐平山治久は独立して間もない新興国チェコスロバキアを訪れた。平山はその感想をまとめた記事を幾つか発表しているが、その中には、ムハに関する次のよう言及がみられる。

ツヱクの美術家は常に一新機軸を工夫発明しつつある。彼等は天才的国民であるからである。現在の大家なるムハ(Mucha)氏の宗教画の如きはその思想の高尚なる、敬虔的態度の真率なる、その結構の雄大なる点に於て、実に近代の偉観である。

抽象的な評語ととんでもない誇張が連なる文章ではあるが、ミュシャではなく、ムハという表記を使った平山は、当たり前のことだが、Muchaをフランスではなく、チェコスロバキア美術界の代表的な存在として位置付けていることが興味深い。
ところで、注目すべきは、平山はプラハで実際にムハに会っていると言うことである。

予はムハ氏にプラグに於て会った。六十歳の立派なる好紳士、唯一管の筆の人でなくして、其学殖の深き事驚くべきものである。彼曰く天命のある限の努力する、残生幾許もない、益々努せねばならぬと。その宗教心の深き、その絵画の高雅なる、実に宛然一個の大説教して居る。

2017年4月5日水曜日

K・チャペックの初期受容についての補足

やれやれ、『チャペック兄弟とその時代』は活字になったばかりなのに、自分が書いた文章にさっそくミスを発見。悲しい。他人のミスを指摘したら怒られるだろうが、自分の論文ならその不出来をここで披露してもよかろう。
拙論「戦間期の日本とK・チャペック」の執筆にあたり、同時代の新聞や雑誌を調査し、K・チャペック邦訳年表(~1945)を作成した。これをみると、1930年代にチャペックの作品が盛んに翻訳され、今にも愛読されている『園芸家12カ月』は既に戦前日本語に訳されていたことなどわかるが、残念なことに年表作成の際には以下の邦訳を見落とした。

・「透視術」(荻玄雲訳、『ぷろふいる』1936・3)
・「出獄」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・5)
・「或る管弦楽指揮者の話」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・5)
・「農園の殺人」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・6)

2017年3月27日月曜日

「三大チェック作曲家」 aneb Česká hudba v Japonsku ve 20. letech

チェコの音楽に関心ある方へ。1923(大正12)年1月、音楽評論家牛山充が『女性改造』に「波欄土及びチェコ・スロワキアの音楽」という文章を掲載し、ポーランド&チェコの音楽史を簡潔に紹介。チェコは、「主よ御恵みを垂れさせ給へ」(ホスポヂイネ・ポミルイ)や「聖エンセスラス」から「三大チェック作曲家」まで紹介されている。さて、「三大チェック作曲家」とは誰のことだろう。



日本のメディアとチェコ その一 aneb První zmínky o Česku v japonském tisku (1.)

チェコ(ボヘミア)に関する記事が日本の新聞に初めて現れたのはいつだろうか。

明治23(1890)年9月11日に『読売新聞』に「ボヘミヤの洪水」という見出しでボヘミヤにては大洪水にてプラギユーのマルドウ河に架せる有名なる古き橋梁は流失せり右に付き三十人の溺死人あり」という電報が発表されている。同じ日に『朝日新聞』にも「澳国の洪水」という電報が掲載され、ボヘミアに於て非常の洪水ありムロドー河に架けたる有名のプラーグ府古橋落ち溺死者三十人ありたり」と当時のプラハの様子が報道されている。言うまでもないが、「プラギユーのマルドウ河に架せる有名なる古き橋梁」とはカレル橋のことである。1890年9月にプラハは大洪水に見舞われ、カレル橋の一部が流されたが、『読売新聞』と『朝日新聞』はともにその現状を短く報道した。日本の新聞に掲載されたチェコ関係の最初の記事の一つである。


「澳国の洪水」(『朝日新聞』1890年9月11日)

ボヘミヤの洪水」(『読売新聞』1890年9月11日)

1890年9月の洪水でカレル橋の一部が流された。背景の聖ヴィート大聖堂にも注目。

2017年3月12日日曜日

「蟹工船」について

2006年、2007年、2008年――僅か2年うちに3度も漫画化された小林多喜二の「蟹工船」。21世紀の漫画家は1929年の原作をどう解釈したのか、三つの漫画を読み比べると、興味深い相違点に気づく。



「国際間競争」について

学内の〇〇研修会で講師が使う「国際間競争」という言葉はどうしても気になる。語源辞典をみると、「国際」とは、西周が使っていた「諸国の交際」という表現をもとに箕作麟祥が明治初期に使いはじめた和製漢語であり、明治末期から英語のinternationalの訳語として使われるようになった。つまり、「間」の字の意味は既に「国際」という表現に含まれており、付ける必要がない。わりと一般的に使われているようだが、違和感を禁じ得ない。

2017年3月6日月曜日

無意味の意味について

年末年始は時間に少し余裕があって読書に耽った。西のキリスト教と東のイスラム教の世界の衝突を背景に一個人のアイデンティティーの喪失と新たなアイデンティティーの創出を主題としたトルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクの『白い城』、架空の一村を舞台に20世紀の大波乱を縮図的に描いた現代ポーランドの女流作家オルガ・トカルチュクの『プラヴィェクとその他の時代』、現代人の生活をつらぬく滑稽極まる無意味さを映し出した小説家ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』など、以前から読もうと思いながらも読まずに本棚に押し込んで埃まみれになっていた世界文学の名作をたてつづけに読んだ。

周知のとおり、ミラン・クンデラは1975年にフランスに亡命してからフランス語で作品を書き始め、どういうわけかチェコ語への翻訳を断じて許可しないため、フランス語が全くできないわたくしのような者は、原文でもなく、母国語でもなく、その他の外国語で味わうしかない。それゆえ、わたくしは『無意味の祝祭』を、クンデラの研究者として知られ、またこれまでクンデラの作品を複数翻訳している西永良成の日本語訳で読んだ。
作品のタイトルにも示唆されるように、『無意味の祝祭』は人間の日常的な営みの「無意味」さを主題とした、否、その「無意味」さを謳歌したとでも言うべき作品である。原作のタイトルは「La fête de l'insignifiance」であり、英訳は「The Festival of Insignificance」というタイトルが付されている。フランス語に堪能でないため原文のテキストを読めないわたくしがその翻訳の出来についてここで所見を述べる資格はないが、「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳を少し疑問に思った。その理由はこうである。「無意味」という日本語の表現には、「筋が通らない」や「辻褄が合わない」という、言い換えれば、内的な一貫性を有しない「ナンセンス」という意味と、「価値がない」や「重要性を持たない」という、つまり、内的な一貫性を有しているが、対外的には注目に値しない「由無し事」という意味が含まれている、とわたくしは考える。「無意味な一文」は前者、「無意味な努力」は後者の一例として挙げられる。ところで、『無意味の祝祭』の「l'insignifiance」とは、作品内容から言えば、後者の意味に対応しているとしか思えない。クンデラは人間の営みを取るに足らない愚行の連続として捉えているかもしれないが、その愚行を、なんの合理性を持たない行為として見做しているわけではない。そこで「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳は不正確ではなかろうが、二つの意味を持つ「無意味」という表現は読者を戸惑わせる…
考えてみれば、「研究」というものは、内的な一貫性(論理性)と対外的な価値という二つの「意味」によって規定されると言えよう。「研究」の媒体としての学術論文や学会発表は、理路整然とした形式で研究者の見解を手際よく伝えるものでなければならないばかりではなく、それと同時に、従来の研究の蓄積に対して新しい視点を提示し、新たな進展に著しく寄与するという判然たる価値を有しなければならない。両方の「意味」は「研究」の必要不可欠の条件であるが、前者の「意味」を持っていても後者の「意味」を持たない研究が多くあるだろう。


2017年3月4日土曜日

函館にて②(2017年2月)

「曇つた日だ。立待岬から汐首の岬まで、諸手を拡げて海を抱いた七里の砂浜には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北国の強い空気に漲つて居る。」

函館の大森浜を舞台とした啄木の半ば自伝的な小説「漂泊」の冒頭場面である。今は跡形もなく消えてしまっているが、大森浜にはかつて砂山があり、啄木はしばしば友人らとここに来て、文学を談じながら海を眺めていた。
さて、この未完の小説にはまた次のような場面が描かれる。

「三台の荷馬車が此方へ向いて進んで来る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀と思ツて肇さんは目を見張ツた。砕けた浪の白泡は、銀の歯車を巻いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで没した。小さいノアの方舟が三つ出来る。浪が退いた。馬は兵器で濡れた砂の上を進んで来る。」

ロシア文学の影響下で書かれた「漂泊」のこの場面も、啄木がじっさいに大森浜で見た風景を再現したものではなく、外国文学からヒントを得て構想されたものだろう。



函館にて①(2017年2月)

110年前、1907(明治40)年五月に石川啄木は生まれ故郷の渋民をあとにし、函館に渡った。8月25日の函館大火で職を失い、止む無く札幌に向かった啄木が函館に居住したのは僅か四か月だったが、啄木にとって人生で最も充実した一時であったと言われる。しばらく短歌を離れ、詩に専念していた啄木が再び短歌に関心を覚え、作歌を始めたのもこの土地である。


『チャペック兄弟とその時代』

『チャペック兄弟とその時代』近日刊行予定、乞うご期待!