2017年4月6日木曜日

ムハについて一言 Par slov o Muchovi v Japonsku

1919(大正8)年、大佐平山治久は独立して間もない新興国チェコスロバキアを訪れた。平山はその感想をまとめた記事を幾つか発表しているが、その中には、ムハに関する次のよう言及がみられる。

ツヱクの美術家は常に一新機軸を工夫発明しつつある。彼等は天才的国民であるからである。現在の大家なるムハ(Mucha)氏の宗教画の如きはその思想の高尚なる、敬虔的態度の真率なる、その結構の雄大なる点に於て、実に近代の偉観である。

抽象的な評語ととんでもない誇張が連なる文章ではあるが、ミュシャではなく、ムハという表記を使った平山は、当たり前のことだが、Muchaをフランスではなく、チェコスロバキア美術界の代表的な存在として位置付けていることが興味深い。
ところで、注目すべきは、平山はプラハで実際にムハに会っていると言うことである。

予はムハ氏にプラグに於て会った。六十歳の立派なる好紳士、唯一管の筆の人でなくして、其学殖の深き事驚くべきものである。彼曰く天命のある限の努力する、残生幾許もない、益々努せねばならぬと。その宗教心の深き、その絵画の高雅なる、実に宛然一個の大説教して居る。

2017年4月5日水曜日

K・チャペックの初期受容についての補足

やれやれ、『チャペック兄弟とその時代』は活字になったばかりなのに、自分が書いた文章にさっそくミスを発見。悲しい。他人のミスを指摘したら怒られるだろうが、自分の論文ならその不出来をここで披露してもよかろう。
拙論「戦間期の日本とK・チャペック」の執筆にあたり、同時代の新聞や雑誌を調査し、K・チャペック邦訳年表(~1945)を作成した。これをみると、1930年代にチャペックの作品が盛んに翻訳され、今にも愛読されている『園芸家12カ月』は既に戦前日本語に訳されていたことなどわかるが、残念なことに年表作成の際には以下の邦訳を見落とした。

・「透視術」(荻玄雲訳、『ぷろふいる』1936・3)
・「出獄」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・5)
・「或る管弦楽指揮者の話」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・5)
・「農園の殺人」(荻白雲訳、『探偵文学』1936・6)