2017年6月11日日曜日

ムハ、オムラジナ、そして、明治の日本 aneb Alfons Mucha a Omladina v Japonsku

国立新美術館の〈ミュシャ展〉は大盛況のうちに幕を閉じた。日本では、パリ時代のポスターをはじめムハ(チェコ語の表記)の作品は以前から数多くのファンによって親しまれているが、スラヴ民族の神話やムハの母国チェコ(ボヘミア)の近代史から画材を採った「スラヴ叙事詩」に初めて向き合った観客のなかで戸惑う方も少なくなかっただろう。巨大なカンバスに描き出される人物や出来事の歴史的な背景を知らない日本人にとって、ムハの作品の意味を読み解くことが決して容易ではない。

「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」と名付けられた作品は「スラヴ叙事詩」のなかで特別な地位を占めている。スラヴ民族の守護神スラヴィアを中心に輪をつくり、手を挙げて忠誠を誓うスラヴ人の姿を描いたこの大作は、複数の人物の顔が輪郭しか描かれていないところからもわかるように、ムハが制作の途中で筆を投げ出した未完成の作品である。手を挙げて誓う人物の姿勢や前面の石塀に描かれた鉤十字は、ヒトラーが率いるナチ党が急速に勢力を伸ばしつつあった1920年代に、作者の本来の意図に反して、ナチズムのシンボルとして捉えられかねないことをムハ自身が制作中に意識したからであろう。

ところで、〈オムラジナ会の誓い〉ムハが何を描こうとしたのか。〈ミュシャ展〉のカタログをみると、この作品の歴史的背景については「1894年、愛国心に燃える若者たちの団体オムラジナが、チェコの政治状況の中で勢力を伸ばした。彼らの要求は普通選挙からスラヴ文化の再生に至るまで広範に及んだ。そのため、オムラジナは20世紀初頭に弾圧されたが、ムハ(ミュシャ)は、スラヴ諸国が外国支配からの解放を目指して奮闘し、国家復興運動が頂点に達した時代にオムラジナが重要な役割を果たしたことに注目した。」と説明されているが、この解説の内容は歴史的事実から遠く離れているとしか言いようがない。(第一、オムラジナとは運動のことであり、一つの組織のことではない。第二、オムラジナが弾圧されたのは20世紀初頭ではなく、1893年のことである。)

周知の通り、1890年代のチェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれていたが、チェコ国内に居住するチェコ人とドイツ人は平等に扱われることなく、チェコ人の市民権が厳しく制限されていた。こうした不平等な扱いを帝国議会では政党〈若いチェコ人〉(Young Czechs)の代議員が強く批判し、一方、プラハの路上では「若いチェコ人」に同調した青年らによって抗議デモが頻繁に行われた。これらの青年たちは自分のことをしばしば〈オムラジナ〉(チェコ語では「若者」の意)と呼んでいた。(〈オムラジナ〉という言葉を冠した団体はこの時期に複数存在し、「オムラジナ」という同人誌もこの時期に刊行されていたが、〈オムラジナの会〉という一つの統一的な組織が存在していなかった。)

1893年、オーストリア政府を批判した大規模なデモが相次いで勃発したため912日に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がプラハおよびその周辺で戒厳令を布告し、デモに参加した若者らが一斉に検挙された。検察は、これらのプラハのデモは自発的なものではなく、〈オムラジナ〉という秘密結社によって起こされたことを主張し、疑わしい証言のほかに証拠らしい証拠を何も手にしていなかったにもかかわらず、検挙された青年らをこの秘密結社の活動に関与したとして起訴した。不満の声をあげる若者らを沈黙させるための不当な裁判であったわけである。のちに詩人として知られるSK・ノイマン(Stanislav Kostka Neumann1875~1947)やチェコスロバキアの初代財務大臣をつとめたA・ラシーン(Alois Rašín1867~1923)をはじめ、起訴された76名のうち68名に対しては実刑の判決が言い渡された。

今、この〈オムラジナ事件〉は日本では全く知られていないが、興味深いことに、発生当時この事件はほとんどリアルタイムで日本で報道されている。1893920日発行の『朝日新聞』に掲載された記事「ボヘミア封鎖を布告す」では、プラハで戒厳令が発布されたことが簡単に報告されているにすぎないが、同年1027日発行の「墺国皇帝詔勅に関する騒擾」では、オーストリアの皇帝が「出版の自由、公会権」を含めて市民権に関する憲法条款の権力を停止した」こと、またそれに対して「ヤング・クゼヒス(=政党〈Young Czechs〉のこと)の領袖等は大に皇帝の圧政を憤り各所に示威的演説を催して頻に人民を煽動し今にも反旗を翻へして維也納に迫らんず有様なるにぞ」と、チェコ国内の緊迫した政治的状況が詳しく解説されている。市民権停止の理由については、「ヤング・クゼヒスの会員」は「全く朝廷に反対することとなり」、「郵便函を破壊し」たり、「皇帝の軍服及び国旗を汚」したりするなど、「乱暴狼藉」を行うため、「墺帝の圧制的詔勅は其実已を得ざるに出たるものなり」と説明されている。皇帝による市民権停止は、「若いチェコ人」が煽動した国民の破壊的行為に対しての正当な対応であったという見方がここで示されているわけである。更に、同年117日に『朝日新聞』に掲載された「過激党三百余人の捕縛」という短い記事では、「「ヲンラヂナ」と称する秘密党」が「墺国ボヘミヤ政府の高等官を暗殺せんと」したため、「党員三百余名」が逮捕されたことが報道されている。記すまでもないが、「ヲンラヂナ」とは「オムラジナ」のことである。

ムハの〈オムラジナ会の誓い〉の題材となった「ヲンラヂナ」(=〈オムラジナ〉)の事件が同時代に日本でも報道されていた。皇帝を批判した〈若いチェコ人〉や〈オムラジナ〉は、まるで帝国解体を目的としたテロ組織のように見做されていたことも明らかだが、不敬罪でさえも厳しく咎められるこの頃の日本帝国(内村鑑三が天皇の御名に対して最敬礼を行わなかったため教職を追われたのは1891年のことである)では、皇帝に対する批判が容認されるはずがなかった。
ムハは〈オムラジナ事件〉の歴史的背景をどこまで知っていたかは定かではないが、彼の〈オムラジナ会の誓い〉は、帝国を相手に怯むことなくて、支配下に置かれる母国の文化の存在権やチェコ人の市民権を主張した若者の愛国心と反骨精神を謳ったものである。

「オムラジナ」(1902)
「オムラジナ事件」(1894)
    

2017年6月10日土曜日

日本におけるカレル・チャペックの受容 aneb Jak to bylo s Kájou Čapkem v Žaponsku

日本で初めてカレル・チャペックを紹介したのは、のちに英文学者として知られる長沼重隆がニューヨークから寄稿した「“R.U.R” 人類滅亡から新しき誕生へ ボヘミア作家の傑作劇」(『週刊朝日』1923121)という記事である、とこれまで言われてきた。当時ニューヨークのGarrick Theatreで上演されていたチャペックの初期代表作「ロボット」を「人間が人間の創造した機械的物質文明のために自縄自縛にはまり込み、遂に之がために征服され、滅亡するの日を描き出した深刻な諷刺劇」として位置づけ、戯曲の物語内容を細かく解説したこの評論は日本で最も早くチャペックの作品を紹介したものである、という指摘は籾山昌夫氏や藤元直樹氏の論文にみられ、わたくしも、先日刊行された『チャペック兄弟とその時代』に収録された拙稿においてこの指摘を踏襲している。
しかし、この文章は日本で初めてチャペックの作品を紹介したものではない。
長沼重隆より一ヶ月早く、192212月に『文明協会講演集』に「米国劇団に表れたボヘミヤ劇の影響」(作者未詳)という評論が掲載され、その中にも、「哲学者であるのみならず、文学批評の書物の著者」でもあり、「戯曲家でもありプラーグのヴインフラデイ劇場への劇の提出者」でもあるカレル・チャペックと、「一スラブ人がスラブ民族の為に書いた」という戯曲「ロボット」が簡単に紹介されている。誤字が目立つ文章であり、内容からいっても、長沼重隆の評論のほうがより詳しくチャペックの作品を解説しているが、(一ヶ月とはいえ)長沼重隆より先にチャペックを日本で紹介しているものとしては注目に値する。(「ロボット」ばかりではなく、チェコスロバキアの文化や言葉、ポルカというダンスの由来などについて説明されているのも興味深い。)