2018年11月21日水曜日

今夏の読書


 日本の近代文学を専門としている人でも、たまには現代の世界文学を読まなければならないと思う私は、夏休みに毎年外国の小説を読むことにしている。今夏は、以下の三冊を立てつづけに読んだ。
 ① テロという破壊行為によって肉体に刻まれる〈記憶〉とその〈記憶〉が生み出していく新たな破壊の連鎖をユーモラスに描いたイラク小説家アフマド・サアダーウィの『バグダッドのフランケンシュタイン』(Frankenstein in Baghdad)② 幼年時代の〈記憶〉を呼び覚まし、現在の自己の在り方の原点を再確認するひとりのスタンドアップ・コメディアンの煩悶を描いたイスラエル小説家デイヴィッド・グロスマンの『馬がバーに入る』(Horse walks into a bar)③ 集団的な記憶喪失によって辛うじて維持されていた「平和」が〈記憶〉の再現によって崩壊されていくというプロセスを描いたイシグロ・カズオの『忘れられた巨人』(The buried giant)。(イシグロの近作について、「buried」を「忘れられた」にした日本語訳のタイトルには個人的に違和感を禁じえない。もちろん誤訳ではないが、「忘れられた」にしたところでこの作品の最後が早くもタイトルで可視化されているような気がする。)
 忘れられる過去、思い出される過去、間断なく繰り返されるこの作用によって揺るがされる現在。異なる言語圏・文化圏の作家によって書かれた作品だが、〈記憶〉を問題にしている点では共通点がみられる。〈記憶〉が意図的に操作される今日において重要なテーマであるに違いない。


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2018年11月15日木曜日

高橋弘希の「送り火」について

読んだ読んだ、いいものを読んだ。高橋弘希の「送り火」。東北の地方町を舞台にして、中学校でのいじめを赤裸々に描いた芥川受賞作である。十年前、川上三映子が『ヘブン』を出版し、話題を呼んだ記憶がある。確かに「悪の根源を問う」作品と発表当時謳われたが、私としては寧ろ高橋弘希の「送り火」に迫真力があると思う。『ヘブン』では、〈被害者━加害者〉と〈罪━罰〉という分かりやすい構図が描かれる。被害者が救済される、加害者が処罰される、事件が解決される、といった、ある意味では、後味のいい作品である(記憶違いかもしれない)。「送り火」は『ヘブン』と異なり、被害者と加害者の関係を被害者の観点からではなく、暴力を傍観している第三者の観点から描く。加害者の責任ではなく、自己保身のため暴力を黙認し、そしてそれによって暴力の更なるエスカレートを可能にしている第三者の責任がこの作品で問われる。

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