2017年3月27日月曜日

「三大チェック作曲家」 aneb Česká hudba v Japonsku ve 20. letech

チェコの音楽に関心ある方へ。1923(大正12)年1月、音楽評論家牛山充が『女性改造』に「波欄土及びチェコ・スロワキアの音楽」という文章を掲載し、ポーランド&チェコの音楽史を簡潔に紹介。チェコは、「主よ御恵みを垂れさせ給へ」(ホスポヂイネ・ポミルイ)や「聖エンセスラス」から「三大チェック作曲家」まで紹介されている。さて、「三大チェック作曲家」とは誰のことだろう。



日本のメディアとチェコ その一 aneb První zmínky o Česku v japonském tisku (1.)

チェコ(ボヘミア)に関する記事が日本の新聞に初めて現れたのはいつだろうか。

明治23(1890)年9月11日に『読売新聞』に「ボヘミヤの洪水」という見出しでボヘミヤにては大洪水にてプラギユーのマルドウ河に架せる有名なる古き橋梁は流失せり右に付き三十人の溺死人あり」という電報が発表されている。同じ日に『朝日新聞』にも「澳国の洪水」という電報が掲載され、ボヘミアに於て非常の洪水ありムロドー河に架けたる有名のプラーグ府古橋落ち溺死者三十人ありたり」と当時のプラハの様子が報道されている。言うまでもないが、「プラギユーのマルドウ河に架せる有名なる古き橋梁」とはカレル橋のことである。1890年9月にプラハは大洪水に見舞われ、カレル橋の一部が流されたが、『読売新聞』と『朝日新聞』はともにその現状を短く報道した。日本の新聞に掲載されたチェコ関係の最初の記事の一つである。


「澳国の洪水」(『朝日新聞』1890年9月11日)

ボヘミヤの洪水」(『読売新聞』1890年9月11日)

1890年9月の洪水でカレル橋の一部が流された。背景の聖ヴィート大聖堂にも注目。

2017年3月12日日曜日

「蟹工船」について

2006年、2007年、2008年――僅か2年うちに3度も漫画化された小林多喜二の「蟹工船」。21世紀の漫画家は1929年の原作をどう解釈したのか、三つの漫画を読み比べると、興味深い相違点に気づく。



「国際間競争」について

学内の〇〇研修会で講師が使う「国際間競争」という言葉はどうしても気になる。語源辞典をみると、「国際」とは、西周が使っていた「諸国の交際」という表現をもとに箕作麟祥が明治初期に使いはじめた和製漢語であり、明治末期から英語のinternationalの訳語として使われるようになった。つまり、「間」の字の意味は既に「国際」という表現に含まれており、付ける必要がない。わりと一般的に使われているようだが、違和感を禁じ得ない。

2017年3月6日月曜日

無意味の意味について

年末年始は時間に少し余裕があって読書に耽った。西のキリスト教と東のイスラム教の世界の衝突を背景に一個人のアイデンティティーの喪失と新たなアイデンティティーの創出を主題としたトルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクの『白い城』、架空の一村を舞台に20世紀の大波乱を縮図的に描いた現代ポーランドの女流作家オルガ・トカルチュクの『プラヴィェクとその他の時代』、現代人の生活をつらぬく滑稽極まる無意味さを映し出した小説家ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』など、以前から読もうと思いながらも読まずに本棚に押し込んで埃まみれになっていた世界文学の名作をたてつづけに読んだ。

周知のとおり、ミラン・クンデラは1975年にフランスに亡命してからフランス語で作品を書き始め、どういうわけかチェコ語への翻訳を断じて許可しないため、フランス語が全くできないわたくしのような者は、原文でもなく、母国語でもなく、その他の外国語で味わうしかない。それゆえ、わたくしは『無意味の祝祭』を、クンデラの研究者として知られ、またこれまでクンデラの作品を複数翻訳している西永良成の日本語訳で読んだ。
作品のタイトルにも示唆されるように、『無意味の祝祭』は人間の日常的な営みの「無意味」さを主題とした、否、その「無意味」さを謳歌したとでも言うべき作品である。原作のタイトルは「La fête de l'insignifiance」であり、英訳は「The Festival of Insignificance」というタイトルが付されている。フランス語に堪能でないため原文のテキストを読めないわたくしがその翻訳の出来についてここで所見を述べる資格はないが、「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳を少し疑問に思った。その理由はこうである。「無意味」という日本語の表現には、「筋が通らない」や「辻褄が合わない」という、言い換えれば、内的な一貫性を有しない「ナンセンス」という意味と、「価値がない」や「重要性を持たない」という、つまり、内的な一貫性を有しているが、対外的には注目に値しない「由無し事」という意味が含まれている、とわたくしは考える。「無意味な一文」は前者、「無意味な努力」は後者の一例として挙げられる。ところで、『無意味の祝祭』の「l'insignifiance」とは、作品内容から言えば、後者の意味に対応しているとしか思えない。クンデラは人間の営みを取るに足らない愚行の連続として捉えているかもしれないが、その愚行を、なんの合理性を持たない行為として見做しているわけではない。そこで「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳は不正確ではなかろうが、二つの意味を持つ「無意味」という表現は読者を戸惑わせる…
考えてみれば、「研究」というものは、内的な一貫性(論理性)と対外的な価値という二つの「意味」によって規定されると言えよう。「研究」の媒体としての学術論文や学会発表は、理路整然とした形式で研究者の見解を手際よく伝えるものでなければならないばかりではなく、それと同時に、従来の研究の蓄積に対して新しい視点を提示し、新たな進展に著しく寄与するという判然たる価値を有しなければならない。両方の「意味」は「研究」の必要不可欠の条件であるが、前者の「意味」を持っていても後者の「意味」を持たない研究が多くあるだろう。


2017年3月4日土曜日

函館にて②(2017年2月)

「曇つた日だ。立待岬から汐首の岬まで、諸手を拡げて海を抱いた七里の砂浜には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北国の強い空気に漲つて居る。」

函館の大森浜を舞台とした啄木の半ば自伝的な小説「漂泊」の冒頭場面である。今は跡形もなく消えてしまっているが、大森浜にはかつて砂山があり、啄木はしばしば友人らとここに来て、文学を談じながら海を眺めていた。
さて、この未完の小説にはまた次のような場面が描かれる。

「三台の荷馬車が此方へ向いて進んで来る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀と思ツて肇さんは目を見張ツた。砕けた浪の白泡は、銀の歯車を巻いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで没した。小さいノアの方舟が三つ出来る。浪が退いた。馬は兵器で濡れた砂の上を進んで来る。」

ロシア文学の影響下で書かれた「漂泊」のこの場面も、啄木がじっさいに大森浜で見た風景を再現したものではなく、外国文学からヒントを得て構想されたものだろう。



函館にて①(2017年2月)

110年前、1907(明治40)年五月に石川啄木は生まれ故郷の渋民をあとにし、函館に渡った。8月25日の函館大火で職を失い、止む無く札幌に向かった啄木が函館に居住したのは僅か四か月だったが、啄木にとって人生で最も充実した一時であったと言われる。しばらく短歌を離れ、詩に専念していた啄木が再び短歌に関心を覚え、作歌を始めたのもこの土地である。


『チャペック兄弟とその時代』

『チャペック兄弟とその時代』近日刊行予定、乞うご期待!