2017年3月6日月曜日

無意味の意味について

年末年始は時間に少し余裕があって読書に耽った。西のキリスト教と東のイスラム教の世界の衝突を背景に一個人のアイデンティティーの喪失と新たなアイデンティティーの創出を主題としたトルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクの『白い城』、架空の一村を舞台に20世紀の大波乱を縮図的に描いた現代ポーランドの女流作家オルガ・トカルチュクの『プラヴィェクとその他の時代』、現代人の生活をつらぬく滑稽極まる無意味さを映し出した小説家ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』など、以前から読もうと思いながらも読まずに本棚に押し込んで埃まみれになっていた世界文学の名作をたてつづけに読んだ。

周知のとおり、ミラン・クンデラは1975年にフランスに亡命してからフランス語で作品を書き始め、どういうわけかチェコ語への翻訳を断じて許可しないため、フランス語が全くできないわたくしのような者は、原文でもなく、母国語でもなく、その他の外国語で味わうしかない。それゆえ、わたくしは『無意味の祝祭』を、クンデラの研究者として知られ、またこれまでクンデラの作品を複数翻訳している西永良成の日本語訳で読んだ。
作品のタイトルにも示唆されるように、『無意味の祝祭』は人間の日常的な営みの「無意味」さを主題とした、否、その「無意味」さを謳歌したとでも言うべき作品である。原作のタイトルは「La fête de l'insignifiance」であり、英訳は「The Festival of Insignificance」というタイトルが付されている。フランス語に堪能でないため原文のテキストを読めないわたくしがその翻訳の出来についてここで所見を述べる資格はないが、「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳を少し疑問に思った。その理由はこうである。「無意味」という日本語の表現には、「筋が通らない」や「辻褄が合わない」という、言い換えれば、内的な一貫性を有しない「ナンセンス」という意味と、「価値がない」や「重要性を持たない」という、つまり、内的な一貫性を有しているが、対外的には注目に値しない「由無し事」という意味が含まれている、とわたくしは考える。「無意味な一文」は前者、「無意味な努力」は後者の一例として挙げられる。ところで、『無意味の祝祭』の「l'insignifiance」とは、作品内容から言えば、後者の意味に対応しているとしか思えない。クンデラは人間の営みを取るに足らない愚行の連続として捉えているかもしれないが、その愚行を、なんの合理性を持たない行為として見做しているわけではない。そこで「l'insignifiance」を「無意味」とした日本語訳は不正確ではなかろうが、二つの意味を持つ「無意味」という表現は読者を戸惑わせる…
考えてみれば、「研究」というものは、内的な一貫性(論理性)と対外的な価値という二つの「意味」によって規定されると言えよう。「研究」の媒体としての学術論文や学会発表は、理路整然とした形式で研究者の見解を手際よく伝えるものでなければならないばかりではなく、それと同時に、従来の研究の蓄積に対して新しい視点を提示し、新たな進展に著しく寄与するという判然たる価値を有しなければならない。両方の「意味」は「研究」の必要不可欠の条件であるが、前者の「意味」を持っていても後者の「意味」を持たない研究が多くあるだろう。


0 件のコメント:

コメントを投稿